中島義道は「戦う哲学者」として有名な人物である。その深い思考から出てきた「言葉」は他とは一線を画し、多くの人々を惹きつけている。
今回の記事では、この「言葉」に着目し、中島義道の名言としてまとめて紹介する。
この記事に書かれていること
今回の記事の要点をまとめると、下記の通りとなる。なお、記事中では、文章全体を端的に表現するため、「敬称略」で書かせてもらっていることを併せてご理解いただきたい。
①中島義道の経歴紹介
→中島義道がどのような人間なのか、ザックリと知ることができる。
②中島義道の名言紹介
→中島義道の「名言」をまとめて味わうことができる。
中島義道とは?
この記事を読んでいる大半の人は、中島義道という人物について、ある程度知っているのではないだろうか。ただ、中には全く知らない人もいるだろう。
そこで、ここでは、中島義道を知らない人のために、簡単な経歴と現在の活動を紹介する。
経歴
中島義道の経歴は下記の通りである。
これだけ見ると勉強ができるエリートだが、若いころは自分探しを続けて東京大学に長期間在籍、晩年は「戦う哲学者」として有名になるなど、強烈な個性も注目されることが多い。
学歴
・1946年 – この年に生まれる。福岡県出身。
・1965年 – 神奈川県立川崎高等学校卒業。東京大学文科I類入学。
・1971年 – 東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科卒業。
・1973年 – 東京大学大学院人文科学研究科哲学専攻修士課程退学。
・1976年 – 東京大学法学部卒業。
・1977年 – 東京大学大学院人文科学研究科哲学専攻修士課程修了。文学修士。
・1983年 – ウィーン大学基礎総合学部哲学科修了。哲学博士。
引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E7%BE%A9%E9%81%93
職歴
・1977年 – 東海大学海洋学部非常勤講師(-78)。
・1984年 – 東大教養学部助手。
・1987年 – 帝京技術科学大学助教授。
・1995年 – 電気通信大学電気通信学部人間コミュニケーション学科教授。
・2008年 – 哲学塾カントを開講。
・2009年 – 電気通信大学退任。
引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E7%BE%A9%E9%81%93
現在
中島義道は大学卒業後、本格的に哲学者としての道を歩む。そして、定年退職間近に開設した私塾が「哲学塾カント」である。
この塾は哲学を志す人のために開かれたものであり、比較的良心的な受講料を払えば、誰でも参加できるようになっている。
そのため、興味がある人は下記サイトを見てみるのもよいだろう。
→哲学塾カント
その他、退職後も複数媒体での執筆活動や各種メディアの取材などをよく受けており、哲学者としては有名な人物といえる。
中島義道の名言紹介
中島義道は哲学者である。哲学者は「言葉」を大事にする。したがって、中島義道の強烈な個性を感じたければ、それに着目すればよい。
ここでは、中島義道の言葉の中から印象的なものをいくつか抜粋、個人的な感想も付け加えながら名言として紹介する。
本やインタビュー記事から抜粋
最初に、中島義道の著作物やインタビュー記事からいくつか紹介しよう。
名言①
戦争に突入した国家では、反戦運動は鎮圧され、反戦的言論も弾圧されるのが普通です。そして、「欲しがりません、勝つまでは」とか「一億玉砕」という単純なスローガンが刷り込まれる。戦争は、人命を殺すのみならず、言葉を殺す。言語の繊細なはたらき、その繊細な感受性を殺すのです。
引用元:五輪実況と「戦時中の標語」には共通点がある
私がこの言い方も気に入らない、あの言い方も気に入らないと訴えると、「そんなに目くじら立てずに、さらっと聞き流せば」と助言してくれる人が多いのですが、そうはできない。「みんな」と同じ言葉遣いを受け入れてしまうこと、それこそ哲学の「安楽死」だと確信しています。
引用元:五輪実況と「戦時中の標語」には共通点がある
中島義道が哲学者としてどれだけ「言葉」を大事にしているのかが分かる名言である。そして、「言葉を殺す」とは、「思考を殺す」ことにつながるのではないだろうか。
みんなと同じ言葉遣いをすることが多い日本人は戦争時に限らず、言葉≒思考を殺しているパターンが多いと感じている。
名言②
自分の信念を貫きながら、いかなる傷も受けたくないという甘ったれた期待など抱いてはならない。信念はそれが少数派であればあるほど、社会の趨勢に逆行すればするほど、全身傷だらけになる。だからこそ価値があるのです。
引用元:哲学者が薦める「いい人」に嫌われる生き方
君たちが、私の教えたことにすべて反対なら、選択は2つしかない。ひとつは、自分の信じることをそのままレポートに書いて、(場合により)『不可』を取る道。2つめは、自分の信念を曲げ私に迎合してレポートを書いて(場合によって)『優』を取る道。
引用元:哲学者が薦める「いい人」に嫌われる生き方
辛辣な意見であるが、事実だろう。自分の信念を貫こうとすれば、激しく傷つくのが世の中である。そのため、多くの人は世間に併合しようとする。
ただ、中島義道は世間に併合する生き方も真剣に行うなら、素晴らしいといっている。これについては岡本太郎も似たような趣旨のことを述べており、説得力がある。
名言③
本当は協調性などなくてもいいのに、わが国ではこれがないと「生きていけない」と思い込まされてしまう。ここには、すさまじいマインドコントロールが作用している。
引用元:人生に生きる価値はない
善良な市民は「ひとに迷惑をかけるな」という言葉が大好きだ。だが、きみやぼくのような人種は、この言葉によってどんなにひどい迫害を受けてきたか分かるだろう?「ひと」とはこの場合マジョリティ、つまり大多数の人だからだ。
引用元:カイン 自分の「弱さ」に悩む君へ
わが国ではどうしてみんなこれほど「明るい」人や「明るい」雰囲気が好きなのでしょう。「暗い」人は、それだけでもう人間失格のような扱いを受ける。それこそ、自然ではないと思います。
引用元:人生を<半分>降りる
日本社会をすっぽり覆っている「みんな一緒主義」、言葉だけの「思いやり主義」「ジコチュー嫌悪社会」が、少なからぬ若者を苦しめ、「もう生きていけない」と思わせ、絶望の淵に追いやっている。
引用元:人間嫌いのルール
いずれも、普通の人が疑わない、常識とされる価値観に対する違和感を表す名言である。特に協調性ばかり刷り込んでいく日本の教育制度については、他の著名人からも批判的な意見を聞くことがある。
協調性という概念の過剰な刷り込みは、みんなと同調する大多数こそ正義だという雰囲気を生みだし、現代日本の「生きにくさ」にもつながっているのではないだろうか。「明るさ」ばかり評価する社会の雰囲気も同様である。
名言④
わが国では一般にサービス業についている膨大な数の人は、弁解を一切しないように鍛えられている。これは正真正銘の奴隷状態であり、ずっとこんなことをしていたら、まともな人なら精神が変になってしまいます。気に入らないことを言う客には、はっきり抗議すればいいのです。
引用元:私の嫌いな10の言葉
平均的日本人は、サービスを提供する人から奴隷のように仕えられたいのであり、言葉を尽くしておだてられたいのであり、もちあげられたいのであり、……つまりむやみやたらに甘えたいのであり、好意的なサインをたえず発してもらって安心していたいのだ。
引用元:日本人を<半分>降りる
日本特有の「過剰サービスのおかしさ」を指摘した名言である。個人的にも、とても共感できる。
「サービスを提供する側は、奴隷のように尽くさなければいけない」、「サービスを受ける側は、奴隷のように尽くしてもらわないと満足しない」というのは、明らかに歪んだ関係といえるだろう。
名言⑤
怒れない人は、まず単純に怒りを表出することから訓練しなければなりません。その怒りが「正しく」なくてもいいのです。だれの賛同を得られなくてもいいのです。そうした単純な表出に慣れてきてはじめて、しだいに効果的な怒りの表出の仕方が身につく。
引用元:怒る技術
自分も相手も傷つかない何らかの解決を見いだす、そんなきれいごとはなかなかないのです。相手も自分も傷ついて、どうにか難局から這い出すほかはない。
引用元:怒る技術
きみは、骨の髄までやさしいのだが、そのやさしさはきみから生きてゆく力を削ぎ落とすのだ。だから、きみが真に生きてゆこうとするなら、きみのからだにこびりつき沈殿しているやさしさを、まずは無理にでも振り落とさねばならないんだ。
引用元:カイン 自分の「弱さ」に悩む君へ
中島義道は「必要なときに怒る」ことの大切さも説いている。そして、それが正しくなくても、誰の賛同も得られなくてもよい、とまでいっている。
これは、人間としての自然な感情の一つとして怒りを我慢するな、ということではないだろうか。また、「やさしさ」だけでは生きていけない過酷な世の中において、「怒る」ことは効果的な自己表現にもなるはずだ。
名言⑥
魔女裁判で賛美歌を歌いながら「魔女」に薪を投じた人々、ヒトラー政権下で歓喜に酔いしれてユダヤ人絶滅演説を聞いた人々、彼らは極悪人ではなかった。むしろ驚くほど普通の人であった。つまり、「自己批判精神」と「繊細な精神」を徹底的に欠いた「善良な市民」であった。
引用元:差別感情の哲学
社会的不適格者は、フェアに戦えば負けることは目に見えており、といってちょっとでもアンフェアをもち出せば軽蔑され、場合によっては罰せられる。しかも、ここにはいかなる差別もないとみなされている。これほどの過酷かつ欺瞞的な状況があろうか?
引用元:差別感情の哲学
私は「わかってもらえない」苦しみは、人間の苦しみのうちで第一級のものだと信じております。だから、いかなる場合も言葉を尽くして弁解し、聞く側はそれをわずかでも封殺してはならない。すべての弁解を聞いてから反論すればいいのです。
引用元:私の嫌いな10の言葉
多くの人々は「善良な市民」、「常識人」こそ素晴らしいと信じて疑わない。そして、それ以外は見て見ぬふりをしている節がある。
そのようなある意味ではタブーにさえ、思い切り踏み込んでいくのが中島義道の魅力の一つである。
名言⑦
人々が芸術家に憧れるのは、私の考えでは、好きなことができるということのほかに、まさに社会を軽蔑しながらその社会から尊敬されるという生き方を選べるからなんだ。社会に対する特権的な復讐が許されているということだね。
引用元:働くことがイヤな人のための本
どんな思想をもってもいいのですが、当人がその思想をどれだけ自分の固有の感受性に基づいて考え抜き鍛え抜いているかが決め手となる。つまり、その労力に手を抜いている人は嫌いなのです。
引用元:私の嫌いな10の人々
いじめが起こると「自分がされたらどんなにつらいか考えなさい」というお説教ばかり聞こえる。そうではないのだ。自分がつらくない些細なことでも他人はつらいかもしれないのである。自分とは感受性がまったく異なっているかもしれないのである。
引用元:<対話>のない社会
中島義道は芸術家についても上記のように語っているが、哲学者にも似たようところはあるのではないだろうか?実際、中島義道の言葉には、 (現代では減った純粋な) 芸術家のような匂いを感じることがある。
思想についての持論も、芸術家が同じような視点で語ってもおかしくはないような価値観という印象を受けた。また、自分と他人が感受性が違うという点についても、個人的には共感できる。
名言⑧
世の中の誰ともうまくやって行けない人は、むしろ「才能」なのだから、それを伸ばすべきではないか。普遍的に人間が嫌いなら、懸命に一人で生活できるように努力すればいい。それだけのことである。こうした生き方が別段劣っているわけではない。
引用元:人生に生きる価値はない
いじめられ続けている生徒、仲間から軽蔑され続けている男、世間から嘲笑され続けている女も絶対的に不幸ではない。こうした人々は、冷たい仕打ちを受け続けることにより、人間の醜さ・愚かさ・ずるさを徹底的に肌で学ぶことができる。
引用元:哲学の教科書
「温かい家庭」を築くことを人生の課題のように考えている人がいますが、そしてそれが達成できないと人生の敗北者のように考える人がいますが、そんなことはない。そうしたい人はそうしてかまわないのですが、結婚生活に失敗しても、一生結婚しなくとも、それでいいのではないか。
引用元:ぐれる!
「普通」に生きられない人々への、アドバイスやエールともいえる名言である。決してやさしいものだけではないが、これらの言葉によって救われる人もいるだろう。
名言⑨
地上のすべての卑劣なこと、醜悪なこと、凶暴的なことは「正義」の名のもとに行われてきた。いかに合理的であっても、理知的であっても、説得的であっても、愛情に満ちていても、自分を一方的に「正義」の側において、それ以外の者を非難し迫害する者は信用してはならない。
引用元:善人ほど悪い奴はいない
弱者は、よく社会のルールを守る。なぜなら、彼らが生き抜くには、みずからの欲望を押し殺し、しぶしぶ社会のルールに従うしか術がないからである。だから、彼らは善人になるしかない。善人とは、与えられた社会的ルールに、何の疑いをも持たずに従っている者なのだから。
引用元:善人ほど悪い奴はいない
「正義」や「善人」について、ここまで突き詰めて考えている人は非常に少数だろう。賛否両論ありそうな持論だが、中島義道特有の感性が発揮されている。
名言⑩
われわれ人間は、「そう思い込みたい」ゆえに、世界を「そうである」とみなしてしまう。それを見抜くことが、まさに哲学の営みである。
引用元:人生に生きる価値はない
私がイヤなのは、わかる努力をしようともしない人のところへ、なぜわかっている人が降りていかなくてはいけないのかということです。無知な私にわかるように学者や専門家は話すべきだ――こうした要求を出す人が当然のようにのさばっている状況がある。
引用元:人生、しょせん気晴らし
あらゆる哲学の営みは「主観性」と「普遍性」という両立することがきわめて難しい概念の微妙な平衡関係のうちに成り立っている。あまりに主観的すぎますと、それは私小説あるいは体験報告になってしまいますし、あまりに普遍的でありすぎますと、科学あるいは学問になってしまいます。
引用元:哲学の道場
中島義道の哲学に対する価値観が分かる名言である。特に最後の名言は、分かりづらい哲学という概念を理解する手がかりの一つとして、貴重なのではないだろうか。
はなむけの言葉から抜粋
中島義道が電気通信大学の卒業生に贈った言葉が「はなむけの言葉」である。この言葉がとても印象的なので、最後に引用という形で紹介する。
学生諸君に向けて、新しい進路へのヒントないしアドバイスを書けという依頼であるが、実はとりたてて何もないのである。しばらく生きてみればわかるが、個々人の人生はそれぞれ特殊であり、他人のヒントやアドバイスは何の役にも立たない。
とくにこういうところに書き連ねている人生の諸先輩の「きれいごと」は、おみくじほどの役にも立たない。
振り返ってみるに、小学校の卒業式以来、厭というほど「はなむけの言葉」を聞いてきたが、すべて忘れてしまった。いましみじみ思うのは、そのすべてが自分にとって何の価値もなかったということ。
なぜか? 言葉を発する者が無難で定型的な(たぶん当人も信じていない)言葉を羅列しているだけだからである。そういう言葉は聞く者の身体に突き刺さってこない。
だとすると、せめていくぶんでも本当のことを書かねばならないわけであるが、私は人生の先輩としてのアドバイスは何ももち合わせておらず、ただ私のようになってもらいたくないだけであるから、こんなことはみんなよくわかっているので、あえて言うまでもない。
これで終わりにしてもいいのだけれど、すべての若い人々に一つだけ(アドバイスではなくて)心からの「お願い」。
どんな愚かな人生でも、乏しい人生でも、醜い人生でもいい。
死なないでもらいたい。
生きてもらいたい。
引用元:中島義道先生が贈った卒業生へのはなむけの言葉
中島義道の言葉はとても鋭い
中島義道の語る言葉は鋭く、周囲を圧倒するようなパワーがある。それは、他の誰でもない、本人の深い思考と人生経験、感受性から生み出されたものだからではないだろうか。
そして、そのような言葉だからこそ、心に深く突き刺さる人もいるのである。それはまるで、「芸術作品」のような趣があるといってもよいだろう。
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