愛と美の関係性について

哲学

誰かを深く愛すること、そして、何かを美しいと感じること。この「愛」と「美」には深い関係性があるのではないか。ここでは、具体的にどのような関係性があるのか、私の経験を交えながら考察していく。

なお、今回の記事で強く主張したいことは「美の本質」である。いわゆる、社会やメディアが押し付けてくる画一化された美意識に辟易している人には、ぜひ本文を読んで欲しい。

愛の定義

愛と一言でいっても、世の中にはさまざまな形があるはずだ。たとえば、一番有名な古代ギリシャの愛の定義では、4つの種類に分類できる。

エロス (男女間の肉体関係を含む愛) 、フィリア (友人間で発生する愛) 、ストルゲー (親子や兄弟の間の愛) 、アガペー (相手に何も求めない無償の愛) の4つである。

このような一般的な定義を下敷きとしながら、愛について真面目に考えていくとそれだけでまた、別の記事が一つできてしまうだろう。そのため、今回は私の価値観に沿って結論だけ先に述べることとする。


私が「美」と関係性が深いと考える愛は、上述した定義でいうとアガペー (無償の愛) である。もちろん、エロス (男女間の愛) も関係性が深く、広義ではストルゲー (親子間の愛) も含まれると考えるが、一番深い関係にあるのはアガペーだ。

もっと厳密にいえば、最初はエロスやストルゲーから始まるものでも、やがて全ての愛はアガペーに昇華されると考えている。究極の愛は無償であり、無償の愛は何かを美しいと感じる心と密接に関わっているというのが私の持論なのだ。

美の定義

美とは、何かを美しいと感じる心のことである。それは異性を含めた人間であったり、自然であったりするだろう。また、多くの人々によってつくられた都市風景を見て美しいと感じたり、美術館で絵画作品を見て美しいと感じたりすることもあるかもしれない。

このように世の中にはさまざまな「美」が存在するが、「愛」と関係性が深いと考えるのは人間に対して美しいと感じる心である。一番イメージしやすいのは愛の定義の項目でも出てきた、エロスのような関係だ。

ただ、これも愛の定義の項目で述べたが突き詰めると究極的な愛と美は、無償の愛であるアガペーに集約されるのである。つまり、誰かに対して無償の愛を持てる心境になったとき、社会が押し付ける画一的な概念を超えた美の本質を発見できるのだ。

具体的な関係性を解説

一言でいうと「美の本質」とは、主観的な世界に存在しているのである。主観的な世界に存在している以上、「愛」という強烈な感情との関係性は深い。誰かを深く愛すれば愛するほど、美しいと感じる心も盲目的になっていく。

主観でものを見る盲目的な世界では、社会が画一的に押し付けてくる基準は関係なくなる。その対象に感情移入すればするほど、美しいと感じる心は強くなっていくからである。つまり、「愛」という感情を持って主観的に感じている「美」こそ、この世で一番美しいものということになるのだ。


このような現象は性的な感情も刺激されるエロスの関係が最も分かりやすいだろう。恋愛関係にある異性を美しいと感じる経験は誰にでもあるからだ。ただ、これだけではなく、親子間で親が子供を愛しいと感じる感情も似たものだと考えている。

子供が愛しい、可愛いというのも極めて主観的な感情だからである。異性間で感じる「美」とは少し違うかもしれないが、社会的な基準が関係なくなるという点は共通している。例えその子供が客観的な基準で外見が劣っていたり、勉強ができなかったりしても、親にとっては世界一の存在なのは間違いないのだ。


そして、究極的に主観的な世界が無償の愛のアガペーである。このような段階までくれば、相手の欠点ですら美しいと感じるはずだ。年齢も関係なく、たとえば、老婆の中に美を見出すこともあるかもしれない。

ただ、アガペーの段階まで誰かを愛せることは一生のうちでも数えるほどだろう。達観した博愛主義者なら全人類にアガペーの心を持てるのかもしれないが、常人には無理である。だからこそ、アガペーの状態で感じる「美」は儚く高尚であり究極的に美しいといえるのだ。



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